自己嫌悪

悲しくはない、怒っている。

人に成長を褒められるのは嫌じゃない。それが今の私じゃなければ。

己を己と認識するのが嫌すぎた。己の体と考える頭のリンクができなかった。ツイッターでは自分を四角い白い箱だと思ってた。自分が嫌いだった。

どうしても自分じゃなきゃ駄目か。他に誰かいただろう。他の精子が勝った方が世界への恩恵は大きかっただろう。少なくとも私という人生史をかけてできた偏見という常識から見た世界への恩恵は。

誰だ、私が産まれて喜んだのは、もう少し前の時代なら生まれてすぐにてきとうに殺されていたのかもしれないのに。くそだ、ふざけるな。何不自由ないこの体が恨めしい。五体満足で、どこかが奇形なわけでもない。内臓が悪いわけでも、頭がおかしいわけでもない。

なぜ神は私に不遇を与えなかったのか。なぜ善人の世界に益をもたらす人間を早死にさせてしまうのか。かわりに私を殺してくれないのか。家の猫がケガをしたのに身代わりになってやることもできない。なぜ私に不幸や事故をもたらさないのか。

いつになったら死ぬんだろうか。あいにく自分で自分を殺すほどの熱意も行動力もない、ストレスを発散することができずにただ日常生活にため息をついてイライラしながら生きている。

嫌だ嫌だ、こんな馬鹿らしい生活。なんでこうなったんだろう、進学先を妥協したから?望んだ高校に行けなかったから?母親にお前に才能があるわけないんだよと当たり前のように言われたから?母親は自分を信じてくれていないと失望したから?ブスと言われて衆目の面前で言われて自他ともに己が不細工であると認識してほしいような精神だから?小一で自分はぶさいくだなあと理解したから?他人は嫌なことをしてくると1年しか行かなかった幼稚園で学んだから?そもそも小さい頃から一人で、一人でいることが当たり前になって学校に通うようになった時「なんで他人の中に投げ込まれなきゃいけないんだ」と考えるようなやつだから?

私は私が嫌いじゃないんだろう。ただこの存在の私が嫌いすぎる。自分だからこそ自分を知り過ぎている、気持ち悪い。舌の裏のびらびらみたいだ。鋏で切ってみたいな。

でも死にたくない、本を片付けるのが面倒だし、理由を聞かれた時が面倒だし、そもそも己のために行動すると言うのが七面倒臭い。

もう少しだけ違う視線で、考えで、足の運びで、爪の形で、息の吸い方で、眉の生え方で、足の長さで、手の大きさで、瞼の開き方で、喉の使い方で。もう少し違う行動の仕方だったのなら、たぶん、もう少しだけ私は私を自分として好きになれたのかもしれないうるさいだまれ気色悪い好きになるわけないこんな汚物。

母親には悪いが、こいつは失敗作だ。明確な失敗作でないから特にたちの悪い失敗作だ。真の無個性は何も持たないということではなくすべてを持っているとでも言うのか馬鹿らしい。

本当にごめんなさいでも私はくそですゴミです死ぬべきです。こうして考えている間にも嫌になります。母親がかわいそうです、こんなやつを友達みたいだと言いました。でもその発言が私にとって母親だった人間を信用できないようにしました。母を母と妄信できずに、結局ただの他人なのだと割り切ってしまうことができた。

自分が嫌いですでも全部嫌いなわけじゃない、クソみたいな友人のツラした自分勝手の塊みたいなやつに出会ってしまったが、それでも私は友達というのができて楽しかったし、ゲームは一人でやるものだからこそ楽しかった。母親も母親だと思っていた時期はいい人だと思ったし、犬は私を好きだから好きだった。この人生が惜しくないかと聞かれれば多少は惜しむ、だけどだからと言ってもう一度この人生を送りたくない二度と人間になりたくはないし生まれ変わりたくもない。結局そうだ、そう思わせる人生になってしまったのも自我が芽生えてからだ。私がうまれてしまったから。

自己嫌悪じゃない、産まれたくなかっただけだ。